草鹿家文庫 P5〜P9


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草鹿家文庫について
青木美智男
草鹿家文庫の概略
 本文庫は、一九八九年(平成元年)、草鹿直太郎(光和堂社長)・外吉(日本福祉大学副学長)御兄弟から日本福祉大学付属図書館に寄贈された、草鹿家代々の方々が収集された蔵書からなっている。草鹿家は、加賀国大聖寺藩(現在の石川県加賀市)藩主前田氏に御典医として仕えてきた由緒ある家柄である。
 蔵書の総点数は七○五点(三、三五○冊)にのぼる。蔵書構成は、主に江戸時代に版行された和漢書とその写本が中心である。その内容は、漢籍から兵法・武術、軍記・歴史、仏書・国学、地方書・名所図会類、幕末・維新記録、そして読本・絵草紙に至るまで、きわめて多岐にわたっている。そして刊行年も戦国期より明治初期まで各年代にわたっている。
 ただお断りしておくが、これが草鹿家が収集した書籍の全部ではない。残念ながら今回御寄贈を受けた蔵書のなかには、家業として世襲されてきた医学関係の書籍や関係文書類がほとんど含まれていない。草鹿外吉氏によれば、医学関係の書籍類のその後については分からないという。

 本蔵書の大半は江戸時代に収集されたものである。しかし、明治に入ってから購入されたものも多い。それは、草鹿家が代々にわたって本蔵書の充実に努めてきたことを物語っている。また、蔵書の一部には、最近まで御家族の方が愛読書として読み続けられてきたと思われるものがある。それらの多くは江戸後期の絵草紙類で、本来読み捨てられてしまう類の通俗本である。しかし、草鹿家の女性の方々がそれらに親しんできたために現在に至ったことを意味している。
 以上の点から本蔵書は、国文学研究はもとより、近世政治思想史研究などにとってきわめて興味深いものであり、

 


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日本近世史研究の史料としても貴重である。たとえば、御典医が専門的知識のほかに、どのような学問や教養を身につけ、藩内でいかなる存在であったかを知ることができる。そして御典医が医業の専門かとしてだけでなく、藩主に近習する文人であり政治顧問であることも教えてくれる。また読本や絵草紙類の多くは、どちらかと言えば女性や子供の読み物であった。実際これらのほとんどは、草鹿家の御夫人の部屋に保存されていたようである。その点で、これらの書籍類は、近世史研究ではもっとも手薄な、近世文人の家族、とりわけ女性たちの読書傾向や教養を具体的に知ることのできる貴重なものであると言えよう。

草鹿家について

 草鹿家は、前述したように加賀国大聖寺藩主前田氏に御典医として早くから仕え幕末に至った、医業の家系である。そして現在の当主草鹿直太郎氏に至るまで代々すぐれた人材を輩出し、社会や文化の発展のために寄与されてきた家柄である。
 草鹿家が仕えた加賀国大聖寺藩は、加賀藩第三代藩主前田利常の三男利治が、一六三九年(寛永一六)、父の隠居のさい、七万石を与えられ大聖寺に分封されたのに始まる。そして草鹿家は、この初代大聖寺藩主前田利治の御典医として、一六四八年(正保五)に召し抱えられ、以後七代にわたって藩主前田氏に仕え廃藩置県に至っている。与えられた扶持は、二百五十石から百七十石のあいだで、家臣のなかでは比較的高禄で、「近習医師」として常に藩主の身辺に仕え、近世後期には、医学頭を勤め多数の医師たちの統率にもあたっている。
 草鹿家が、医業をもって家業とするに至った動機は、はっきりとしないが、近世後期に記された草鹿家に伝わる「家譜」によれば、次のような事情による。その部分を原文のまま紹介しよう。

 昔日仕ヘシ雲林院殿ト云フハ、工藤家ノコトニテ、伊勢ノ三家ノ一ニシテ其頃雲林
院ト 呼フ、信長国司ヲ平ケラレシ時、一処二滅ヒヌ、鎌倉ヨリノチナミヲ以テ小山
ノ一類、 此工藤家ニ属セシト見へタリ、紋所ノ瓜モ拠所ナ

 


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 キニアラス、工藤家滅後、亨徳院二帰記シ幼子医術ヲ精クセシモ、是時ヨリノコト
ト見 ヘタリ、其後万助金沢二来リ横山氏ニ仕ヘ、其子玄立ヲ以テ小松黄門公へ召出
サレ、大 正持御分封ノ節、実性公ノ侍医二召出サレ、

 これらの記述は、祖先名がおぼろげながら分かりだす孫左衛門の代のことであるが、孫左衛門については、「家譜」の別項に

 勢州雲林院殿ニ仕フ馬廻組ニテ永禄八年勢州一揆ノ節討死(以下略)

と記され、さらにその子万之助について

 雲林院殿滅後京ニ往キ従故道三正純亨徳院マテ彼家ニ帰記シ、其後金沢へ来リ、承応元年十月四日病死

と記されている。これらの記述を要約すれば、草鹿家の本貫の地は伊勢である。当初は小山氏と名乗っていた。そして孫右衛門の代に伊勢の三家と呼ばれた工藤家に仕えていた。しかし、織田信長によって工藤家が滅ぼされたとき孫左衛門は討ち死にした。その後子の万之助は、亨徳院(京都)に身を寄せ医術を学ぴ、その後加賀国金沢へ来て横山氏に仕えた。その子玄立のとき「小松黄門公」(加賀藩主前田利常)に仕え、さらに「大正持」(大聖寺)へ利冶分封の節これに従った、ということになる。
 この草鹿家「家譜」の記述は、戦国末期の伊勢の状況を描いた戦記物『勢州軍記』(著者神戸良政近世初期に成立)の内容と比較しても、一・二の誤り(たとえば、永禄八年勢州一僕は、同一一年の誤りなど)を除いて、かなり信頼性が高い。ちなみに最初に仕えた雲林殿とは、「工藤の両家督は、安濃郡長野家は其の一人なり。故に工藤の大将なり。奄芸郡雲林院家は其の二人なり。故に長野の一味なり」(『勢州軍記』)と言われるように、「北勢の三家」(『三重県史』)の一つ工藤氏の一族であった。そしてこの長野・雲林院両家のほかに、「安濃郡草生家・同郡家所家・并ぴに安濃郡細野家・同郡分部家等、各々長野の与力となり」(同)と工藤軍団を構成する在地領主が紹介されているが、このなかの「草生家」は、草鹿家に代々伝承されてきた自家創世逸話と関連する一族で、興味深い存在である。
 以上、戦国末期の草鹿家の事情を縷々紹介したのは、医業を修めその技術がいかにすぐれていたからと言っても、



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もはや氏素性の分からない者を召し抱えるほど混乱の時代ではなくなっていた。草鹿万之助が、加賀国金沢に落ちのび前田氏に仕えられたのは、戦国の「系譜」がものをいったに違いないからである。
 ついで、大聖寺藩での草鹿家の代々の当主について、公的記録である『大聖寺藩士由緒帳』(加賀市史料二・三)の草鹿家「由緒之覚」から抜粋し紹介しておこう。実際はここからが、草鹿家の本格的な歴史であると言ってよいだろう。

 由緒之覚
 一、初代 本国伊勢 生国加賀                   草鹿 玄立
  正保五年正月従利治公御医師被召出、御知行弐百石下賜。相勤罷在候処、延宝
六年  八月隠居被仰付、天和二年閏十二月病死仕候。
             金沢御藩中松村十左工門女 妻
  承應元年六月病死仕候。

 一、二代                             草鹿 玄仲
  延宝六年八月父玄立隠居被仰付、家督無相違弐百石被下置。貞享元年於江戸表御
加増  五拾石都合二百五拾石頂戴仕。組外組ニテ相勤罷在候ノ処、正徳五年六月七
十才ニテ  病死仕候。
             諏訪平左工門女 妻
  享保十七年七月病死仕候。

 一、三代                             草鹿 玄冲
  正徳五年十二月亡父玄仲継目トシテ拾人扶持下腸。御医師相勤罷在候処、享保六
年十  二月新知百石下腸。(同)八(年)三月御加増二十石下腸。十三年正月御加
増二十石  下腸。寛保四年二月御加増三石下賜。寛延二年御加増三十石下賜。寛延
二年御加

 


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  増三十石下賜。都合二百石拝領仕相勤罷在候処、病身ニ付宝暦二年正月隠居被仰
付、  五人扶持下腸罷在候処、宝暦三年六月七六才ニテ病死仕候。
            木村道斎女 妻
  安永四年閏十二月病死仕候。

 一、四代                             草鹿 玄仲
  寛延二年六月五人扶持下腸、御医師被召出相勤罷在候処、宝暦二年正月父隠居被
仰   付、家督百七拾石下腸。利道公御近習御医師被仰付、江戸御供度々相勤。安
永十年十  一月浄智院様従江戸表喜連川表へ御入輿ノ節御供被l仰付。重教公御病
中御診被仰   付、金沢表へ罷越候ニ付、御目録トシテ銀子五枚拝領仕。寛政四年
九月七十才ニテ病  死仕候。
           安達了應女 妻
  文化十六年六月病死仕候。

 一、五代                             草鹿 玄泰
  寛政四年十二月亡父遺知無相違百七拾石下賜、御医師被仰付。寛政八年八月江戸
千駄  木詰被仰付。文化六年八月利考公御近習御医師被仰付。相勤罷在候処、七年
正月五十  七才ニテ病死仕候。
           富田孫助女 妻
  文化四年二月病死仕候。

 一、六代                             草鹿 玄龍
  文化七年四月亡父遺知ノ内、家督トシテ百五拾石下腸、医師被仰付。十一年十月
利之  公御近習御医師被仰付。