草鹿家文庫 p40〜46


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(14) 地誌

 ある地域の自然・社会・文化などの地理的な事項を記述した書物を、一般に地誌という。
 日本の最古の地誌は上代の『風土記』である。和銅六年(七一三)、朝廷の命により各国の地名とその由来、物産品目、土地の肥沃状態、伝説などについて報告された官撰の地誌であった。『常陸国風土記』『出雲国風土記』などが現存しており、上代の地理・文化や地方独自の神話・伝説・歌謡などを知る上で、貴重な文献である。 
 『風土記』以後、中古・中世には純粋の地誌はほとんど見られないが、近世になっておぴただしい数の地誌が著述されるようになる。明暦(一六五〜五八)ごろから名所記・案内記・道中記の類が流行し、近世後期になると、絵入りの名所図会の刊行が盛んになってくる。「草鹿家文庫」に収められている地誌もほとんどがこのたぐいで、次の諸書が含まれている。

 『和泉名所図会』『江戸名勝志』『河内名所図会』『京都順覧記』『山州名跡志』
『世界国尽』『摂観余光』『摂津名所図会』『但馬考』『摂州多田温泉記」『東海道駅路鈴』「東海道名所図会』『諸国奇談東遊記』『浪華の賑ひ』『日本名山図絵』『播磨国細見図』『坂東・西国・秩父観世音霊場記』『兵庫名所記」『本朝奇跡談』『都名所車』『都名所図会』『大和名勝志』『大和名所図会』(五

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十音順)。
 この中で、『摂州多田温泉記』は他に一本しか存在が確認されていない珍しいものであるとともに、その内容も興味深いものであるので、少し詳しく紹介しておこう。
著者は馬淵醫圭なる人物で、この書の内容と名前から医者かと推定される。安、水九年(一七八○)秋に、大坂心斎橋の正本屋小兵衛と京都寺町通の梅村市兵衛を版元として出版されたものである。
 内容は、「醴泉之説」「多田の温泉効能の大略」「温泉浴法并養年の法」「諸国温泉考」からなっており、多田温泉の湯があらゆる病いかなる難病に対しても極めてすぐれた効き目を発揮するということが、事細かく連綿と綴られている。おそらく宣伝のために作られたものであろうし、やや誇大な叙述もあって、そのまま信用することはできかねるものの、医学的知識や全国の温泉に関する知識を背景にして記されているので、ある程度の説得力は感じられる。しかし、最も興味深いのは温泉の正しい入り方を説いたくだりで、たとえば、次のように記されている。

  まづ湯へ入にハ湯ぶねの中だんに腰をかけ、柄杓にて湯をくミ、肩より惣身へか
ゝ   り、両手にて惣身をなでさすり、気血をめぐらし、心をへその下へをさめ、
又湯を   かゝり…(中略)…
  一 入湯中過酒過食すべからず。諸勝負事に心をこらすべからず。(以下略)(林)


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(15) 地図・古絵図

 草鹿家文庫には数多くの地図、絵図類が収集されている。日本全図としては、水戸の長久保赤水の著した『日本輿地路程全図』の寛政三年改訂版のほか、高柴英三雄の『大日本国郡輿地全図』嘉永二年新増版などがある。赤水の没年が享和元年であり、有名な伊能忠敬が蝦実地の測量を始めた翌年に当たっており、まさに近代的地図の先駆をなしたものであるが、これらは日本全体図であり、また詳細にわたるものではなかった。
 各国別に一図とし、全国六十余州を一冊にまとめたものが『国郡全図』である。文政二年の成立だが、草鹿家文庫には天保八年版を所蔵する。これは尾張国名古屋の市川東谿の作になるもので、序文を寄せた内田観■は、

 ひとり長久保赤水、かって路程図を著して遠近の程を晰にし、伊能忠敬、海湾を揣測 して経緯の度を詳かにす。然して尚未だその全き者を得んとして果さず。余ここに憾み あること久し。

と述べて、東難の図の重宝さを歓迎している。
 このほか『信濃国大絵図』、『摂州大坂企図』、あるいは林子平作図の『琉球国図』(写)、また『高野山細見大絵図』、『味方ケ原接戦地図』(写)なども残されている。 かわったところでは江戸の古図である『慶長江戸図』二種の図、外壕内の


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略図と詳細図とがある。略図の方の識語によると、

此図ハ弘化二年巳の九月山下友右衛門(下総国市川村の人にて松戸宿の薬商人なり)の所蔵せしを借得てうつしおくことかや原図ハ小田原の医師山谷といふ人所持せしを友右衛門の祖父市兵衛うつしおきしとなり

また詳細図の方には、

右慶長年中江戸図者我国人某所伝来而友人神尾政輔模写者與世間見行残闕者不
同好  古之士豈可不宝重以備考據哉(以下略)
     天保庚子十月十六日 信濃国松本 鈴木諧識

と記されており、さらに

   文政十年丁亥閏六月冩同月廿三日對校畢 本図神尾藤三郎政輔所蔵

と朱筆した上で、図中に神尾氏の追加を朱で加筆している。さらに今度は青字で、

   華族松浦家蔵本ヲ比校異同ヲ藍書ス 元書七尺有余四方ノ江戸絵図ト斗アリ
按ニ  半裁ノ大図ハ乃チ其元本ノ切レタルナリ
     明治甲申七月廿五日 小宮山昌玄識

と今度は青字で図中に加筆している。
 この最後の識語を記した「小宮山昌玄」は、明治初期の漢学者で、通称を綏介(やすすけ)、また南梁木(なんりょう)とも号した。家は代々水戸藩に


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使えた儒家であったが、維新後は東京府の史職、さらに束京帝大史料編纂員なども勤め、神宮司廰の『古事類苑』編纂にも従事している。多数の著書の内には『東京城建置考』、『束京地理誌』なども含まれ、或いはこれらの資料編纂時にこの地図が活躍したものかも知れない。
 二種の地図とも「小宮山所蔵図書」の朱文長方印が捺され、この地図の通歴、来歴を物語っている。

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(16) 幕末、維新期の資料類

 幕末から明治維新期にかけての動乱を記す貴重な資料類も数多く含まれている。 
 江戸城空け渡しにより、天皇の京都から江戸入城を記した『御親征行幸中行在所日誌:一〜四』(慶応四年三〜四月)、太政官から発行された江戸開城後の広報である『江城日誌二:一〜一五』(慶応四年五月)、その後を継いで明治改元により新しく設置された江戸鎮台より発行された『鎮台日誌:一〜一二』(明治元年六〜七月)、明治政府の広報で官報の前身となった『太政官日誌:一〜四○』(慶応四年二〜七月)などがある。
 また当時の新聞である『内外新聞:一〜四』(慶応四年四〜五月)、『内外新報:一〜四五』(慶応四年四〜五月)、『横浜新報もしほ草:一〜七』(慶応四年四月)などがあり、いずれも明治の夜明けを告げる瞬間の記録が集中的に集められている。
 雑誌では福沢論吉らの『民間雑誌:一〜四編』(明治七年二〜七月)、『明六雑誌:七〜一一号』(明治七年五〜七月)など一部ではあるが、いずれも当時の世相をうかがい知る上での貴重な資料であろう。
 維新政府から発せられた条令などものこされている。明治三年に明治政府が初めて頒布した刑法典である『新律綱領』(一〜五巻、六巻欠)、明治四年


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に制定された我が国初の貨幣条令である『新貨條例』、明治八年にこれを改訂した『貨幣條例』などが含まれる。
 啓蒙書の類も多く、嶺田楓江の『海外新話』(五巻、嘉永二)はアヘン戦争の事情を詳述し、日本に迫る外圧に対する認識を高めることを目的に刊行したもので、広く庶民にまで及ぶことを意図し、平易な文章で挿絵まで加えた読本仕立てにしたが、当時海外事情の流布を是としなかった江戸幕府により絶版処分を受け、著者は江戸十里四方追放、書店虎屋菊三郎も罰金の科を受けている。
 このほか斎藤徳蔵の『海外異傅・全』(嘉永三)、中井貞の『西洋紀行』(上・下、慶応四)、福沢論吉の世界国盡」(六巻、明治二)、また仮名垣魯文の読本『西洋道中膝栗毛』(一二編・二四冊、明治三)、初の外国地誌として有名な内田正雄の『與地誌略』(一二冊・一巻欠、明治八)なども本文庫に含まれている。
 例によって趣味、娯楽に関わる雑誌類も多い。朝野新聞社内花月社から発行された文芸誌『花月新誌』一二冊、歌舞伎を中心とする東京諸芸新聞社の総合芸能誌『諸芸新間:一一〜二○号』(明治一四年)、さらには時代が下るが明治大正期の『歌舞伎』、『演芸画報』、『上方趣味』などの雑誌が多種多数収集されており、歌舞伎を中心とする芝居、演劇に並々ならぬ関心がうかがわれる。