草鹿家文庫 p31〜p39
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(9) 随筆
日本では、「随筆」の名称は、室町時代に成立した一条兼良著『束斎随筆」に初めて現れる。この書に於ける内容、及び形態は、諸書から説話を引用し、それらを分類しただけのものである。『束斎随筆』における「随筆」とは、文字通り「筆」のおもむくところに「随」って、まとめた文章の意思としてのものであろう。現在では、「随筆」とは「見聞・経験・感想などを筆にまかせて何くれとなく記した文章。『枕草子』『徒然草』の類。漫筆。随想。」(広辞苑)等と定義される。それらの根底にある考えは、西欧におけるEssayの内容・形態に相応するものを意識したものであろう。今日的定義からの発想であろうが、日本の文学史では、清少納言の『枕草子』を最初の随筆文学としてあげるのが通例である。四季折々の自然や人事・行事に関してや、また、人生論・愛情論などが変化に富む文体で綴られている。 |
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近世に降っても、その伝統を受け継ぐ文学的な随筆車が続いて書かれている。代表的著作としては『花月双紙』(松平定信)や、『玉勝間』(本居宣長)、『駿台雑話』(室鳩巣)、『折たく柴の記』(新井白石)などが挙げられる。しかし、そういった文学的随筆が著される一方で、研究的・考証的あるいは学問的な性質等をもつ様々な著述がなされるようになった。今日的定義とは趣を異にするものではあっても、当時より「随筆」と認められているものが、 |
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数多く著されたのである。それらは、日本の近世の漢学者たちが、中国の宋から清初期に及ぶ儒者たちの、随筆的著述を多く著した傾向に影響を受けたものであろう。 「草鹿家文庫」には、『玄同放言』(文政元年〈一八一八〉刊)、『関の秋風』(天明五年〈一七八五〉成立)、『用捨箱』(大保十二年刊)などの随筆類が収められている。 『玄同放放言』は曲亭馬琴の著作で、自著『燕石雑志』に次ぐ随筆である。和漢の書より天然・人事の諸事物に関して引用し、馬琴自身が論証を試みるというもの。単なる抜書き的随筆とは異なり、独特の魅力がある。 『関の秋風』は、松平定信の著作で、写本として伝わるものである。「草鹿家文庫」蔵本は、天保十二年〈一八四一〉に書写されたもの。著者が白河に入部した際に見聞した事物の記述。領内の風景・気候・方言などについて雅文体で記す。 『用捨箱』は柳亭種彦の著作で、近世初期の風俗・言語等についてを考証したもの。多数の古書からの引用を傍証として考証し、信憑性のあるものとなっている。特に、俳諧に関する書物を活用する点に特色を持つ。 (富田) |
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(10) 往来物
往来物とは、本来は往復の手紙模範文、又は模型文をまとめて手本の形にしたものをいう。しかし、近世になると、初歩の教科書としての性格を持ち、初歩教材一般も含むようになった。特に女子専用のものが作られ、女子教訓書としての「女今川」、「女大学」等は、近代それも第二次世界大戦に至るまでの長い間、流布しつづけたものまであった。 |
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のがある。草鹿家の女性達の教訓書であった。 これらの書には、教訓のほかにも、女性の教養として、源氏物語、百人一首等といった古典文学についての手短かな知識にまで及んだ記述もある。近世において、特に百人一首が女性に親しまれ、源氏物語を飜案した『偐紫田舎源氏』が喜ばれたその素地をつくる役目も果たしたのであった。 (小谷) |
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(11) 絵本
絵本としては、絵手本、風俗絵本の意味と読みものとしての挿絵入本、更に実用書、宗教書としてのものとがある。読みものとしての絵本は、草双紙、読本にまでひろがりをもつ。ここでは、絵手本、風俗絵本としてのものについて述べておく。 |
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出した山水、七巻に本朝山水風景図をおさめる。守国の影響を受けた葛飾北斎の『北斎水滸伝 上下』も当文庫にみられる。
(小谷) |
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(12) 読本(南総里見八犬伝)
読本とは、絵を主体とした絵草紙類に対し、文章を「読む本」の意であるが、寛延期から天保期にかけて、中国小説に影響を受けた怪異的・伝奇的な小説群をいう。読本の展開としては前期・後期の二期に分けられる。前期読本は寛延期から天明期にかけて、上方を中心として怪異短篇小説が主流となった。この期の代表的作者としては、『雨月物語』等を著した上田秋成、『本朝水滸伝』前編等を著した建部綾足等が挙げられる。後期読本は天明期以降から天保期までで、江戸を中心に長編伝奇小説が展開した。その期の代表的作者として、『忠臣水滸伝』等を著した山東京伝や、『棒説弓張月』等を著した曲亭馬琴などが挙げられる。 (富田) |
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(13) 合巻類
合巻とは、江戸時代後期の草双紙の一種で、従来の各編数巻分冊の様式から、適宜に数巻を合冊した形態になったことから付けられた名称である。 |
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かった。中絶した『偐紫田舎源氏』の流れを汲むものが登場するのである。その中でも有名なものは、『釈迦八相倭文庫』(応賀作、国貞画、安政六年刊)と『其由縁鄙俤』である。藩医であった草鹿家同様、幕末の医師坪井信良の手紙にも、医師佐渡家の女性(実母)ヘのお年玉として、先の二書を購入している記事がある(『幕末維新風雲通信』安政二年一月二十一日付書翰)。そして、『偐紫田舎源氏』も佐渡家の実母に送っている。この本の出版禁止後の面白い記事でもあり、手紙の一部を引用しておく(安政元年二月十六日付書翰)。
先年公世之処、板本御取立ニテ滅板ニ成申候者ニテ、世上ニ至テ少キ処ニテ、諸 『偐紫田舎源氏』は絶版になったが、その人気は海賊版を生むことになった。それを入手して送ったのである。その結果、『共由縁鄙俤」初編の話へと通じるというのである。 (小谷) |