草鹿家文庫 p22〜p30


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(5) 史論・史学書、雑史

 当文庫には軍記・雑史の類が刊本を中心に多く所蔵されている。平安末期の数々の戦乱を記す『前太平記』(一二冊)、源平の争いを記した『平家物語』(延宝五年版二一冊、刊年不明二一冊)、『源平盛衰記』(宝永四年版二四冊)、豊臣・徳川の争いを記す『難波戦記』(写本・九冊)、戦国期の九州の動乱を記す『西国盛衰記』(宝永八年二一冊)、『西国太平記』(寛文元年一○冊)、秀吉の朝鮮出兵を描く『朝鮮軍記大全』、また徳川氏創世史とも、言うべき『三河後風土記』(写本・四五冊)、などが含まれる。
 新井白石を初めとする諸学者の史論・史学書の類も数多く、『日本書紀』、『日本外史』などのいわゆる正史のほか、さまざまな雑史の類が数多く見出される。

 草鹿家が加賀の地にあったことを特徴付ける異色の雑史として、加賀藩の記録を書き綴った山田四郎右衛門(三壷三左衛門)の『三壷聞書』(写本・一五冊)が含まれている。加賀藩足軽だった四郎右衛門は好んで史書を読み、ついに自ら加賀藩の通史を書き記すまでとなった。鎌倉・室町の簡単な記述から書きおこし、前田家の興起を尋ね、以後加賀藩における事録を細かに綴り、三代藩主利常の没までを書き記したものである。
 また天下の台所大阪で体制の内側から勃発、幕府の心肝を寒からしめ、後

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の反幕行動に大きな影響を与えた大塩平八郎の乱の顛末を記した『浪花筆記』(写本・一二巻/一二冊)がある。『国書総目録』によれば、わずかに大阪市立図書館(文久二写三・三冊)、大阪府立図書館(写本・六冊)、神宮文庫図書館(安政三写・一冊)を伝えるのみである。「草鹿家文庫」に含まれる『浪花筆記』一二巻は同一人の流麗な筆になるもので、漢字には読みを記し、一巻の末尾には同一の書体と見られる筆で、「此書■而他見無用■也」との貼付がある。序文によれば天保八年(一八三七)「自然識」と記されており、この「自然」がいかなる人物かは不明であるが、同じく「自然著・天保八序」になる『天満水滸伝』(写本・二編二○巻)の存在が知られており(京都大図書館に前編一○冊のみ所蔵)、或いはこの『浪花筆記』を増補したものかとも思われるが、両書がどういういきさつをもつものか今後の調査が待たれるものである。
 このほか安政の大地震の記録を綴った『安政見聞誌』(安政末年刊・三冊)、同じく安政地震の『地震類焼場所明細書之写』(写本・一綴)など貴重な資料類も残されている。

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(6) 実学・実用書

 多様多種な蔵書の内には、日用・実用書の類も少なくない。例えば和算の『新撰早割江戸相場・二一天作』、『算学稽古大全』、『算法大全指南車』など、当時巷間に流布したと思われる実用書が残されている。また本朝の貨幣図鑑ともいうべき近藤守重の『金銀図録』七冊(文化七序)、あるいは天文学の釈圓通著『仏国暦象編』五巻(文化七)などに交じって『天文図解』、『伊勢暦・文久四甲子暦』などの書も含まれ、近世地方士家の日常生活面での意識、興味などをうかがわせる資料も少なくない。
 武家の心覚え等を記すものも多い。『奏平年表』(写本)は、家康から家斎まで(天文一一〜天保八)までの史実を年代に従って記述したもので、忍屋隠士(大野広城)編として天保一二年(一八四一)に「限定三百部、市販を禁ず」として刊行されたが、即幕府の絶版処分をうけ、以来密かに写本で流布したものである。『徳川実紀』と併せ見られるべきもので、他に見られない史料を含み史料的価値は高い。本文庫に含まれる写本は綿密な細字で克明に筆写され、標題の字体や、細かな要目索引などは、刊本をそのまま影写したもののようである。なお旧蔵者の蔵書印が見られるが、名前の判明する部分だけが注意深く切り取られており、手放すにあたってもかなり配慮された跡がうかがわれて興味深い。


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 『御定軍役』、『寛政律』、『公裁秘録』など、法例関連のものも写本で多く伝えられている。『服忌令註解・并諸家窺御附札留』と題する写本一冊は、安政一○年長山庄右衛門自序になるもので、弘化三年の写である。『国書総目録』に紹介される本書は『服忌心令撰託令撰註』の名で伝えられているが、本文庫と同一の書名を冠する系統のものが刈谷図書館に所蔵されている。
 服忌令は近親者が死没した際、喪に服する期間を定めた江戸幕府の法例で、綱吉の代、貞享元年(一六八四)に公布、その後細部についてしばしば改訂され、吉宗の代、元文元年(一七三六)の改訂により確定したと見られる。親族の服忌を尊卑・親疎の程度で六段階に分け、ここに規程される範囲の親族が原則的に親類とされ、種々の法的義務を課せられた。幕府の服忌令は武士及び庶民に適用されたため、諸藩においてもこれが準用されたと、言う。明治政府により民法が制定されるまで長く用いられることとなったが、刊本では殆ど見られず、数多くの写本類で伝えられている。
 また近世の地方制度に関する規則・取り締まり・慣例・採決などを収録した、大石久敬の『地方凡例録』(写本、一一冊)や、『地方聞書・全』(写本、一冊)など、一連の地方(じかた)関連の資料も目を引くものである。徳川中期以降、幕府の地方支配強化による財政再建、諸藩の藩政改革などのあいつぐなかで、享保期には「地方学」ともいうべき分野の興隆が見られ、幕府の下級役人、諸藩の郡奉行など、いわゆる地方巧者によって地方書が編纂さ

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れるようになった。農政・田制・租法に重点が置かれ、地方支配において任務の遂行に不可欠な総合手引き書と言うべきもので、版本や写本によって地方役人、村役人などの間に普及した。
 またこれら地方書を補うものとして、『算法地方指南・全』(天保七)、当時の農地の計測基準を記した『規矩分等集・全』(亨保七)、測量法の実際を述べた『量地指南・前編』三冊(亨保一八)なども文庫中に含まれ、さらには土木・建築の実際の工法を記した『御普請目論見一件』と題した写本一冊も所蔵されている。
 この『御普請目論見一件』一冊は、流麗な細字の筆致に詳密な細図を施した横綴じの一冊で、「良房蔵」の表書きが見られる。農政面で最も重要な治水・利水対策上、河川の築堤・橋梁本などの土木工事の手引き書で、甲州流の工法を始め、東海道筋の河川工事で行われた工法など、各種、各地の工法・技術を記録、紹介する極めて興味深いものである。

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(7) 諸芸・娯楽、その他の雑書

 『草鹿家文庫』は大別して学問・教養に関する書と、実用、趣味・娯楽の部門に属する書とに分けることが出来る。
 婦女子の教育に関しては、江戸時代前期に刊行され、後の女子、往来物に大きな影響を与えた『女重宝記』五巻がある。女子が成長し、結婚、お産、家事一切をきりもりして行く課程、女の一牛にわたって心得ておくべき教訓、教養を書き記したものである。そのほか当時最もひろく普及した貝原益軒の『女大学』を始め、『女今川操種』、『女庭訓御所文庫』などが見られ、婦女子の教育にも熱心であったことがうかがわれる。この内『女今川操種』は文政一○年(一八二七)に刊行されたもので、『国書総目録』によればわずかに国会図書館に一本を伝えるのみである。(往来物の項参照)
 これら「往来物」の他にも、婦女子の一般的な教養、たしなみとして、『花術三才噺』(華道)、『煎茶早指南』(茶道)、『香道要要略集』(香道)、『撫箏雅譜集』(箏曲)などの書も一通り含まれている。
 また個人の蔵書としては珍しいものに『書籍目録大全』が挙げられる。書籍目録は出版元の総カタログと言うべきもので、江戸時代以降どれだけの書籍が出版されたか、またそれらの版本が残っていて、需要に応じて擦れることを示したものである。『書籍目録』の類は、書籍の出版活動が本格的とな


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り、出版業が確立するようになって編纂され、寛文頃から江戸時代を通じて出版されており、十数種にのぼっている。当文庫に含まれるものは宝永六年(一七○九)刊行の六冊で、どういう経過で蔵書に加えられたか不明だが、まさにマニアの収集物と言えるだろう。
 絵本、絵草紙、読本、浄瑠璃の類にはどん欲なまでの興味が見られ、数多くの草紙類が残されており、さらに歌舞伎を中心とする芝居、演劇の資料は維新以降も引き続き収集されているが、不思議なことに当時の士家の男子の教養として必修ともいうべき謡曲に関する書は殆ど残されていない。俗に加賀宝生と言われるほど謡曲の盛んな加賀の地にあって、しかもこれほど多方面にわたって収集されている文庫の内に、殆ど謡曲の書が見られないのは、よほど肌に合わぬ代物であったのかも知れない。あるいは逆に専門の医学書類が殆ど残されていないことにも共通する、文庫形成過程(あるいは残存過程)で何等かの事情があったものか、興味ある点と言えるだう。

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(8) 和歌・俳諧・川柳・狂歌

 文庫全体の中で和歌・俳諧等の占める割合は多いとは言えない。当時の知識人の教養に必修とされた和歌については、歌集として目につくのは『金塊和歌集」と『源三位頼政歌集』の各一冊ぐらいである。前者は、言わずと知れた鎌倉の三代将軍・源実朝、後者は歌人としてよりもむしろ源氏の武将として名高く、平家追討ののろしを上げながら、宇治平等院で自刃した源頼政である。勅撰集などの代表的歌集が含まれず、歌人としてはむしろ異端に属する二人の源民の武将の歌集を集めている。たまたま偶然の結果か、或いは草鹿家の好みの現われかも知れない。そのほかでは本居宣長の『古今集遠鏡」六巻(寛政六)、賀茂真淵の『字比麻奈備」五冊、有賀長伯の『和歌分類』七冊(元禄一一)などの歌学書、注釈書の類がむしろ数多く含まれている。 
 全体としては和歌に関連する書はけっして多いとは言えないなかで、『名所和歌集』三冊(承応二)の類や、婦女子に人気の高い「百人一首」及びその注釈書の類が数件含まれているのも本文庫の特徴である。
 俳諧では芭蕉の『読猿衰』二冊(元禄二)、『幻住庵記』(元禄三)、『芭蕉文集』二冊(安政二)などのほか、『俳諧藻塩草』四冊(享和四)、許六の『風俗文選』五冊(宝永三)など十数点の俳書が見られるが、やはり当時の俳書類の出版状況、知識階級への人気度から比べると、本文庫には少ないと


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言えるだう。
 さらに川柳・狂歌の類となると石川六樹園の『狂歌百人一首』(文化六)など、わずかに三〜四点を見出すのみである。和歌・俳諧はけっして多くはないものの、それなりに集められているのに対し、川柳・狂歌の類が殆ど収集されていないのは、むしろ士家として、また藩医としての草鹿家の見識や考え方をはからずも表わすものとなっている。