草鹿家文庫 p16〜p20


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五巻、松平頼寛著『論語徴集覧』二○巻など、解説書・注釈書の類が数多く含まれている。
 また新井白石、太宰春台、荻生徂來、大橋訥庵などの儒学者の著書も多数含まれており、これらの漢学に関する教多くの蔵書は、そのまま藩医として、また士家としての草鹿家の学問・教養に対する深い関心の高さを物語るものと言えよう。

 ■ 17p

(2) 仏書類

 仏書類も数多い。仏典をはじめ各宗派の経義など、特定の宗派にかたよることなく、あらゆる宗派におよんでいる。『法華経入疏』(一二冊・九禄一一)、『注維摩詰経』(五冊・貞享三)、『二一十唯識論』(二冊・元禄一五)、『和解元享釋書』(二三巻・元禄三)のほか、『鎌倉殿中問答記』、『尊問愚答記』などのほか、『繪本日蓮大士御一代記』(二冊・享和三)、『大経五悪所圖繪』(三冊・弘化五)、『観音経和談鈔圖繪』(三冊・天保四)など、婦女子などにもわかりやすい教化の書も含まれる。
 古い刊本では『碧厳集』五冊がある。北宗克勤の撰になるもので、我国で道元が伝えて以降禅僧の間でひろく用いられ、五山版として中央の東福寺、健仁寺、妙心寺などのほか美濃、越後、日向でも刊行された。当文庫所蔵のものは美濃瑞龍寺版で、文明年間(一四七○年代)の出版とされる。摂州矢田村妙薬寺の旧蔵印があり、朱で加筆が随所に見られるが、保存状態も比較的良好である。瑞龍寺は現在岐阜市寺町にある寺で、臨済宗妙心寺派に属する。文明二年(一四七○)に朝廷から「金宝山」の勅額と「準十刹」の綸旨を頂戴した名刹であった。「宗門第一の書」と表書し、宗門の徒にひろめたものである。


 ■ 18p

(3) 武術・兵法書類

 江戸期に出版活動が活発となり、多くの古典、実用書の類が出版される。しかしながら当時の出版部数は整版で三百から五百、多くても千部ほどで、経済的、地理的条件などから入手出来ない層は多く、一般庶民の多くは貸本業者の手から提供を受けた。兵法、武術書の類は出版点数は決して多くはなかったが、下級武士を中心とする知識者層に人気が高く、貸本屋でも特に兵法書の部を設けて対応するものもあったらしい。武術書などはその性格土、書写を中心に武家の間に伝えられ、広められることが多かった。
 「草鹿家文庫」に含まれる書写本の内には、有沢式貞(桃水子)著と推測される一群の書や、有沢惣蔵(致貞)古写『諸紺御合印(旗指物諸合印)』が見られる。有沢武貞・致貞は、加賀藩の兵学家・有沢氷貞の子で、長男が武貞、次男が致貞、ともに父の跡を継いで兵法家として名を成した。
 有沢永貞は佐々木秀乗及ぴ山鹿素行に従って兵学を学ぴ、『甲陽軍艦本未通解』(十八巻)他多数の著作を著わした。加賀藩主五代・前田綱紀に登用され、元禄年間には国政に関する意見書『有沢私考』(三巻)をも奏している。その後代々この業を継いで大いに栄え、特に、永貞・武貞・致貞の親子は「三貞」と称せられ、当時加賀藩の士一人として有沢流兵学を学ばざる者無し、と言わしめたほどである。


 ■ 19p

 本文庫に所蔵する有沢武貞(桃水子)著と推測される一群の写本類は、宝永四年(一七○七)桃水子著の奥書で『図解軍容戦功全』と題箋を付した『軍容之巻』一冊と、別に伝えられる六冊で、その内訳は『軍詞之巻』、『軍法之巻』、『兵器之巻土・下』、同じく『兵器之巻』、ならぴに後人の上皇日で『具足の着様』と記す一冊である。『軍詞之巻』に序文があり、以下のごとく述べられている。

   兵法抜書疋夫之抄ハ永貞作之趣キ其序ニ述ルカ如ク当務ノ用タリ然共其ヲ委ク
セン  ト思ヘハ其事少ナカラス予先年疋夫抄私解ヲ作テ大概ヲ註ストイヘ共猶文儀
ニ暁シカ  タキ處有今粗図スル者ハ唯幼愚ヲ導クノ一助タランカト題而疋夫抄図解
トス(以下   略)

 『国書総目録』によれば、『兵法抜書疋夫之抄・図解』(宝永四〜五年成立)として掲げられ、宮内庁書陵部所蔵の『疋夫之抄図解』と題する八冊本、同じ書名の金沢市立図書館所蔵の七冊本などの存在が知られている。本文庫所蔵の写本類もこれに該当するものと思われる。
 その他数々の兵法書のほかに、『大坪流馬術書』、『解龍流(馬術)』、『箙書(弓術)』、『機流早槍初学書(槍術)』(いずれも写本)などの武術書も含まれ、士分としての草鹿家の並々ならぬ意識をうかがわせる文庫となっている。


 ■ 20p

(4) 軍書

 江戸時代は軍書がよく読まれた時代であった。わが国で、最も古い商業本屋と言われる富春堂は、慶長八年(一六○三)三月に、古活字版『太平記』四十巻を刊行して登場した。爾来、『太平記』は幾度も刊行され、軍書の代表的な位置を占めた。商業本屋の初期の刊行物として軍書が取り上げられた事は、読者層の嗜好を知る上で示唆的である。
 江戸期に出版された軍記は、二つに大別できる。一つは、『太平記』、『平家物語』などを代表とする中世の軍記物語であり、もう一つは、江戸時代に制作された軍書類である。こういった軍書の類は、貸本屋を通じて好んで庶民に読まれたのである。貸本屋の中には、徳島の増屋惣七のように「軍書貸本所」の看板を掲げるものもあった。また、名古屋の貸本屋大野屋惣八(大惣)の蔵書目録『大野屋惣兵衛蔵吉目録』の車書の類を見ても、羊数を超えるものに同本の置本が川意されており、入気の程が分かる。史に江戸時代には、『和漢軍書要覧』(明治七年二七七○)刊。吉田一保著)のような昔まで数度刊行されているのである。『和漢車書要覧』とは、和漢の車記物語、野史、稗史、軍談の類の書名、編者等を記し、併せてその梗概や説明がなされるものである。
 では、軍書はなぜ庶民の間で好んで読まれたのであろうか。それは、軍書の特質として主に歴史に対する啓蒙性と娯楽性があったからと言ええよう。一方、軍書を制作する側から見れば、その目的は多くの軍書の序文や跋文、凡例等に記される内容から窺うことができる。それらから一貫して読み取れる思想は、歴史的事実が現在の規範になるということであり、その為に事実の正確な記述が重要であるというものである。言わば、一種の歴史主義であり、啓蒙教訓を目的とする立場であった。新しく江戸時代に出版された軍書は、漢字片仮名まじりの文体で、史書として編纂しようとする態度が見られる。但し、軍書に虚説が多いことは当時の識者も指摘する所であり、注意しておかなければならない。また反面、所謂通俗軍書と言われるものは、一般大衆を意識した漢字平仮名まじりの文体で、「雨中のつれ■」などに娯楽として読む目的をもって制作されたものも多いのである。
 軍書の読者層は、たとえ仮に漢字平仮名まじりの文体として特徴付けられる通俗軍書を含めたにしても、浮世草子や浄瑠璃等の読者層とは同一に扱うことはできないのである。即ち、軍書は知的氷準の高い人々の読み物であったと考えなければならない。この点から見れば、「草鹿家文庫」に軍書も多く残されていることは、草鹿家の人々の読書に対する興味の傾向と、知的水準の高さを理解する上での一つの指標となろう。

(富田)