草鹿家文庫 p10〜p15
■ 10p
其後天保二年マデ江戸表へ御参勤毎御供被仰付。文政二年正月御加増拾石下賜。 八年 正月御加増拾右下賜、都合百七拾石拝領仕。天保二年三月梅芳院様御病中出 精相勤候 付、御熨斗目井御目録拝領仕。六年江戸御供被仰付。八年三月御近習・ 御医師御免仰 付ラレ、十一年四月医学頭仰付ラレ、十四年医学方骨折候付御羽織 拝領仕。嘉永三年 十月利義公近習御医師被仰付。同年十一月栄操院様就御病気、 金沢表へ早打御使仰付 ラレ罷越候処、従斉泰公目録頂載仕。四年江戸御供被仰付 。安政二年利義公於江戸表 就御大病、御人指ニテ早打御使被仰付。慶應元年正月 及老年候ニ付隠居被仰付、年々 銀拾枚下賜是迄ノ通医学世話可仕旨被仰渡。且又 |
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数年相勤候付、御目録銀子二枚頂戴 仕罷在候処、明治二年九月七十八才ニテ病死 一、八代 草鹿甲子太郎 |
草鹿 甲子太郎 明治三年庚午三月 以上であるが、代々医業によって藩主に仕えてきたことが分かるだろう。そして廃 甲子太郎 元治元年九月二六日出生−−−昭和二年六月二六日没、弁護士 と受け継がれて現在に至っている。なお、このほか草鹿家には分家が二家あり、それぞれ大聖寺藩の士分に取り立てられ幕末・維新期から現在に至っている。
文人・政治顧問としての御典医草鹿家 すべての御典医たちがそうだったかどうかは定かではないが、すくなくとも草鹿家は、本文庫の蔵書構成から見て、藩主に近習する医師専業者ではなく、文人であり政治顧問的な存在だったのではないかと、先に指摘しておいた。 |
のは遅いので、草鹿家は伝統的な医学を受け継いで侍医としての勤めを果たしてきたものと思われる。 近世の御用医師は、「医にして儒を学ぴ」と言われるように、医学とともに儒学を修めることが必須であった。そのため、早くから詩文をものにするものが多かった。草鹿家が大聖寺藩内にあって著名だったのは、まさにそうした文人としてであった。とくに五代玄泰(蓮渓)とその子玄龍(遯斎)は、「詩医」と称されるほどの存在であった。また玄龍は、藩主側近として幕末の藩政に重要な位置も占めていた。そこで、『大聖寺藩史』・『加賀市史』通史編を参考にしながら、代々の著名な文化活動を中心に紹介し、本文庫利用に供することにしよう。 草鹿家代々のなかで、文人としてまず著名になったのは二代玄仲である。玄仲は、北軒と号し、詩文をよくし、朱子学者の河野通尹とよく唱和する間柄だったという。そして「北軒稿」・「配済録」などを著している。しかし草鹿家の名声を高めたのは、前出の草鹿蓮渓こと、五代玄泰と六代遯斎、玄龍であった。まさに文化文政期、地方文人の時代である。蓮渓も遯斎もともに、折衷学派に属した。そして詩文を、京都の文人皆川淇園や江戸の山本北山から学び、遯斎は、京都で頼山陽などに学んだ。師はいずれも当代一流の文人たちであった。こうした師の影響だろうか、蓮渓・遯斎はいずれも、大変すぐれた漢詩文を詠み、江戸にも聞こえる地方文人に成長した。とくに蓮渓は、「蓮渓医話」・「澹察筆記」・「松下筆談」・「松風斎詩文稿」・「■ 園百律」など、医学から詩文まで幅広い分野にわたる書物をあらわした。 そして遯斎こと玄龍は、混迷する幕末藩政にあって、藩主への「上書」を認め、中央での政争に対する意見や藩内の状況改善に関する問題を具体的な事例をあげて激しく藩上層部に迫っている(「草鹿玄龍上書」)。それは、藩主の身近にあって数度の江戸参府に従い、幕末の政治状況を直接見聞してはじめて展開できる議論であり、草鹿家もまた幕末・維新の政治動乱を避けて通れなかったことが分かるだろう。 こうした祖父・父の影響を受けた七代泰沖(蓮浦)もまた、幕末の大聖寺藩を代表する地方文人に成長した。蓮浦は折衷学者東方芝山に師事し、詩文は京都で学ぴ、江戸では幕府の昌平坂学問所で学んだ。そして詩文はもとより、絵画でも名をなしている。 |
以上のようなすぐれた地方文人を代々輩出したことが、多様な蔵書構成をもたらした大きな要因であることは、間違いなかろう。そしてこの雰囲気こそ、家族たちを常々読書に親しませ、絵草早紙から読本にいたるまで、ベストセラーの通俗本をおおらかに購入させたものと思われる。これらのなかには、幕府によって禁書となったものまであるが、おそらく、江戸参府のさい特別のルートを通して手に入れ、故郷に送り家族を喜ばせたに違いない。 |
(1) 漢籍・漢学・漢詩文
加賀大聖寺藩の藩医だった草鹿家は、また士分でもあった。武家としての教養を培うための様々な書物が数多く蔵されていたことは当然である。 |